幻想奇館

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ありがとう、さようなら
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ぼくは誰かの背中の上にいた。その人は降り始めの雪みたいな白い肌と沈みかけた太陽みたいな赤い髪を持っていた。ぼくは両手でその人の首に、両足でその人の胴にしがみ付き右肩の上に顎をのっけていた。
ぼくはその人の背中に張り付いたまま蔦に囲まれた洋館に入って行った。緑の葉がぼくたちを歓迎するみたいにザワザワ揺れた。その洋館は中まで蔦が這っていてぼくらが歩くたびにギシギシ音をたてた。ぼくたちは螺旋階段を昇って赤絨毯の敷かれた廊下を進む。歩を進めるほど緑色が濃くなっていった。廊下の一番奥に扉が有った。ぼくらはその扉を開ける。部屋は元の木目が見えないほど蔦が絡まっていた。中央に椅子が置いてあり、その上に豪奢なドレスをまとった女性が居た。彼女は陶器の肌に薔薇色の唇を持っていた。目は閉じられ、彼女は人形か屍体の様に見えた。蔦は彼女の頭から生えていた。彼女は薔薇色の唇を開き柔らかな響きの言語を話した。その言葉は愛を囁くためにできたかのように美しかった。僕を負っている何者かは彼女の言葉に答えた。「ウィ」と一言。女性はその言葉に安堵した様に微笑み、「メルシ」と一言言った。
ぼくらは洋館の外に出た。そして洋館に火を付けた。火はたちまち大きくなり蔦と洋館を包んだ。巨大な洋館が赤色に染まっていく様をぼくらはずっと見ていた。不意に何かがぼくの腕を濡らした。僕を背負っている人が泣いているのだと気付いた途端ぼくはひどく感傷的な気分になり彼(もしかしたら彼女)の逞しい背中により強くしがみ付いた。そのままぼくらは火が自然に消えるまでずっと洋館と蔦と女性が燃えるのを見つめていた。洋館がすっかり消し炭になるとぼくらは洋館のあった土地を後にした。
夜が空に覆いかぶさるようにしてやって来た。地平線から現れた闇がぼくらを包む。月もなく、星もなく、切れかけたアセチレンランプだけがぼくらを闇から浮かび上がらせた。ぼくを背負う人は強く、勇ましく歌い始めた。その低い声は僕の空っぽの胃に子守唄のように甘く響いた。その歌につられるように目の前の闇から黒い異形が現れた。その影の様な異形は傷口の様に赤く裂けた口を開きパイプオルガンの様な声で歌い始めた。
ドゥルラララ――
ル―ル―ラララ
気付いたらぼくらの周りにはたくさんの異形がいた。その全てが真っ赤な傷口から旋律を奏でていた。それはきっと彼らの泣き声なのだろう。ぼくは彼らと一緒に泣いた。
ル―ラ―ルルル―
夜はやって来た時と同じように地平線から去って行った。異形の彼らも太陽が昇るにつれ薄まる闇と共に消えて行った。最後の一人が見えなくなるまでぼくらはそこに立っていた。そしてみんないなくなってその場所にはぼくらだけ残った。それからぼくらもその場所から立ち去った。
いつの間にか空は雨雲でいっぱいになっていた。通りの真ん中に壮齢の男性が居た。ぼくらは立ち止ってその男性を見た。彼は海の底の様な暗い青色の瞳をしていた。その男性は格式高い言葉を話した。ぼくを背負っている誰かは彼と知己であるかのように親しげに話していた。そのうちに空いっぱいの雨雲から水が流れ出てきた。彼らはしばらく会話をつづけていたが、やがて彼の体に異変が起きてきた。肌の露出している部分、初めは手から、彼の体は溶けて行った。手が溶けきるとまたしばらく何も起きなかったが、彼の服がすっかり雨を吸って重くなる頃には彼の体は帽子に守られた首から上以外は全く溶けてしまっていた。その首も横殴りの雨に濡れ、ほとんど原形を留めていなかった。彼は溶けきってしまう前に「バイ」と一言残して下水口に流されて消えてしまった。後にはずぶぬれになった服とぼくらだけが残った。雨が彼の死を悼むようにシンシンと降っていた。ぼくらは通りを北に進んで行った。
雨は雪に変わっていた、ぼくを背負う人の肌と同じ色のそれをぼくはとても愛おしく思った。道は銀色に染まり、僕らの足跡だけがその上に痕を付けていた。銀色の妖精が二人雪と共に空から降りてきた。彼らは銀色の髪と銀色の瞳に銀色の翼を持ち、肌はアラバスターの様な乳白色をしていた。彼らは歌い、狂ったように踊り始めた。その声は湖に張ったばかりに氷のように澄みわたり、天にまで届くかのように響いた。やがて彼らは踊りをやめ、糸の切れたマリオネットの様に地面に倒れた。彼らの白い肉体は雪に埋もれ、何処にあるかも判らなくなった。ぼくを背負う人は雪の中に手を突っ込み、銀色の羽根を双つ拾い上げた。それも無数の銀色に砕け散り風と共に空に溶けた。ぼくらは十字を切り雪の中を尚も歩いて行った。
煉瓦でできた街に着いた。その街は絵に描かれたかのように綺麗な街だった。ぼくらは一つのお店の中に入った。此処はどうやらお菓子屋のようだった。棚には緑色のミントキャンディー、青色のジェリービーンズの入った壜が並べられ、ショーウィンドーには真っ黒なザッハトルテに真っ白なクリームブリュレ、そして真っ赤なストロベリーパイが宝物のように飾られていた。奥から一人の老人が現れた。彼はまるで杉の木の様に背筋が真っ直ぐ伸びていて、干し無花果の香りがした。彼は厳格な言葉を話した。するとなぜかぼくは背中から降ろされた。ぼくはその時初めてぼくを背負っていた人が女性で、彼女は髪だけでなく眼もまた紅玉の様な色をしている事を知った。彼女もまた厳格な言葉を話した。ぼくに何かを勧めているらしい、どうやら好きな物を選べという事の様だ。僕は迷わず彼女と同じ色のストロベリーパイを指差した。彼女は老人にその旨を告げ、ストロベリーパイを受け取りハッキリとした発音で「ダンケ!」と言った。対して老人もハキハキと「ビッテ!」と一言述べた。ぼくは再び彼女に背負われ、店を後にした。
気付けば見覚えのある景色が広がっていた。恐らく此処がぼくの帰るべき場所なんだろう。ぼくは彼女の背中から降ろされ、確かに自分の足で立っていた。ストロベリーパイは紅に変わっていた。彼女は自分の親指を噛んで、そこから流れる血をその紅に混ぜた。そしてそれで僕の顔に何かの紋様を描いた。「左様なら」ぼくのその言葉が合図だったかのように彼女は蜃気楼のように消えて行った。
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あさぎ
2014/08/30
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