鮮やかなりし 胡蝶の夢 捌

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かつて蟲柱だった少女の記憶と平和ボケした別人の記憶が混ざり合って変容した「しのぶ」が室町時代に落っこちて、よくわからないまま日々を過ごして、やがて己の終着点を見つける話。
そのしち。襲来。
※よくある天女ネタ
※鬼滅との成り代わりクロスオーバー
※さらさらっと鬼滅のネタバレあり
※名前だけ鬼滅キャラも登場します
※なんか病気っぽい表現がありますが、実在する疾患とは異なります。それっぽいだけのフィクションです。
※当たり前のように書いてあることの大体は捏造か妄想です
※落乱ニワカ知識なので細かいところはご容赦ください
いつもコメントやスタンプありがとうございます。ちゃんと見てます。励みになります。がんばります。
そのしち。襲来。
※よくある天女ネタ
※鬼滅との成り代わりクロスオーバー
※さらさらっと鬼滅のネタバレあり
※名前だけ鬼滅キャラも登場します
※なんか病気っぽい表現がありますが、実在する疾患とは異なります。それっぽいだけのフィクションです。
※当たり前のように書いてあることの大体は捏造か妄想です
※落乱ニワカ知識なので細かいところはご容赦ください
いつもコメントやスタンプありがとうございます。ちゃんと見てます。励みになります。がんばります。
本文
◼️それぞれの祈り
しのぶは許可を得て、預かった紙束―――病症録を生活拠点である長屋で読んでいた。長次は多くを語らず、まずは渡した資料を読んで判断して欲しい、と願ったからだ。
読み進めていくうちに、やはり病症録というよりも観察日記に近いように感じる。定型文も何もなく、書き手が感じたことをそのまま記すような。所々考察や感想が混ざっていることもあり、非常に自由に書き込まれている。
観察の対象者は、きり丸という少年だった。
一年は組に所属。戦火で故郷を失い、家族も姓もなくした子供。今は姓の代わりに、出身地である摂津を名乗っている。銭に執着し、アルバイトで生計を立てる。固定の住処がなかったため、長期休暇時は教員の土井と同居している。……おそらく、きり丸に関する基本的な情報なのだろう。丁寧に綴られた文字は整然としており、見覚えがあった。校医の新野の字だ。彼もこの件に関わっているらしい。
事の経緯は複雑だ。しかも「天女」が関わっている。
これまでの天女は、忍術学園の内情を知っている者ばかりだったという。天女たちの断片的な発言から「忍術学園を舞台とする物語があること」、「特に猪名寺乱太郎、摂津のきり丸、福富しんべヱの三人が物語の中心になっていたこと」は、学園側も推察していた。
三人は一年は組に所属している。本当に物語であるならば、彼らの同輩や担当教員たちもよく登場すると考えられる。
天女の多くは、土井に懸想していることが多かった。彼は一年は組の教科担当である。必然的に「物語」でも登場する機会も多く、故に「天女」の目に留まったのだろう、というのが学園側の考えだ。……自分たちが物語の中の存在だと暗に言われたことに、思うところがないわけではない。しかしそれは、今は後回しだ。
前述した情報を踏まえると、天女たちが一年は組の面々に絡むのも頷ける。わざとらしく可愛がるのは土井の気を引きたいからで、辛く当たり散らすのも土井に目をかけられている彼らへの嫉妬心からだろう。
そして、一年は組の中でも特に絡まれていたのがきり丸だったらしい。
将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、という諺が浮かぶ。土井と共に暮らし、彼の最も身近に存在する身内のような子供。なるほど土井に取り入るならば確かに都合が良く、しかし恋に狂った女たちにとっては邪魔な存在でもあろう。
鬼殺に生涯を捧げたしのぶには、些か理解し難い感情だ。
平和ボケ記憶の方も雑学など偏りのある知識ばかりで、恋だの愛だのを誰かと育んだようなエピソード記憶はない。親兄弟も、自分の名前も思い出せないのだから当たり前ではあるけれど。
或いは、まだ「しのぶ」ではなかった自分にも愛する人がいたのかもしれない。―――恋とはどんなものかしら、なんてらしくもなく考えてみたところで、やはり何も思い浮かばなかったが。
しのぶは思考を切り替えようと首を振る。今は己の感情よりも、きり丸少年の方が重要だ。
つらつらと記されている考察を前提に、後の頁は日々のきり丸の様子が書かれている。ここから様々な字体が増えていた。墨がとっ散らかったような字、それぞれ大きさもバラバラな字。漢字や文法を間違えているものもあった。まだ幼い子供が書いているような印象で、実際そうなのだろう。合間合間に丁寧な解説や修正が赤ペン先生のように書き足されていて微笑ましい。
きり丸に一番近い距離にいるのは、一年は組の子供たちだ。これらは彼らが日常の中に紛れる違和感を頑張って書き起こしたもの。些細なことばかりではあるけれど、それが積み重なれば、もはや立派な異常となるのだ。
曰く――きり丸少年がおかしくなったのは、幾人目かの「天女」の暴言からだった。
どうにも決定打がその時の天女だっただけで、それまでの天女たちからも暴言やら嫌味やらはあったようだ。積み重なったそれらに、ついに耐え切れなくなって彼の心は悲鳴を上げる。つまり、過度のストレスによる精神の疲弊。
書き記された文字をそっとなぞる。
――「全部どうでもよくなって」。
――「何か考えようとしても上手くまとまらなくて」。
――「だから自分で何かを決められない」。
実際にきり丸から聞いた言葉のようだ。面談でもしたのかもしれない。
表面上は、おかしくなる前の彼と同じように過ごしているらしい。しかし、どうやらそれは彼自身が今までの日々の行動をなぞっているだけで、それ以外となると異常は顕著に見えるようだ。
食事のメニューが決められない。言わなければ風呂に入ることを忘れる。指示をすればできるけれど、思考力や問題解決能力を求められる課題に関しては全く手につかない。小さな怪我に気付いていないように放置していた。アルバイトは内職系ばかりになった。ぼんやりしている時間が増えて……話しかけなければ、ずっと動かないでいる。他にも細々とした異変がいくつも書かれていた。
記憶に則ってマニュアル通りに日々を進められるけれど、毎日が同じだなんてあり得ない。些細なことでもひとつひとつを考え、選択し、対応していかなければならないのだから。
しかし、今のきり丸にはそういった臨機応変が出来ない―――どうでもいいから、何かを決められないのだ。今は教員や先輩、学友たちがどうにかこうにかフォローしているようだった。
一通り読み終えて、しのぶは頭を抱えた。
否が応でも思い出すのは、かつての胡蝶しのぶの継子の少女だ。――栗花落カナヲ。酷い虐待を受け、幼い頃に心を壊してしまった。色々あって胡蝶姉妹が引き取った子だ。彼女も、自分の頭で考えて行動することができなくなっていた。
どうでもいいから決められない、なんて悲しい言葉をまた聞く羽目になるとは。
どうしたものかと悩む。きり丸を助けてほしい、と長次は言ったが、具体案など早々に出てこない。安易に、似たような状態だったカナヲと同じように関われば良いわけでもない。症状の原因も環境も性格も性別も違うのだから当然だ。
未来では心理学や精神疾患などの研究も進んでいるけれど、この時代……どうやら聞く限り室町時代らしいが、そんな過去では、心を病んだ者は大体は狂人扱いである。狐憑きだの祟りだのが信じられている時代なのだ。
異常を見つけてちゃんと観察し、さらに記録として残し、結果心を病んでいるのでは、とアセスメントしている時点で彼らは十分賢明である。
まずは、くだんのきり丸少年を実際に診てみなければ何とも言えない――のだが、自分は彼を傷付けた「天女」の立ち位置にいる。
長次が依頼してきたのだから、しのぶときり丸を会わせる気はあるのだろう。しかし本人がどのような反応をするのかはわからない。しのぶ自身は本当に何もしていないけれど、これまでの「天女」と同一視されてしまえば、刺激になってより悪化する可能性もある。……いや、それすらどうでもいいと思うのか。
しのぶは紙面から読み取れる情報をもとに、頭の中でまとめていく。
―――そこで、ふと幾つかの気配が長屋へと向かっていることに気付いた。
「ここ?」
「いつも天女さまが住んでる離れの長屋…」
「ここだよ、間違いない」
「いるかなあ…?」
「今日は天女さまは医務室お休みだったから、いるはずだよ」
気配を潜めているつもりなのか、足音は小さい。しかしこそこそと話す声がさざなみのように聞こえてくる。まだ声変わりもしていないような高い少年たちの声。隠密にしては随分と実力不足だ。
天女という単語が聞こえたことから、どうやら自分に用があるらしい。少しばかり構えたが、敵意はなさそうだった。
「きゅ、急に来たから、怒るかな…」
「でも食堂で見た時は優しそうな人だったよ」
「そうそう、優しい人だから大丈夫だって!」
「そう言えば生物委員会も会ったんだっけ…」
「うん、すごく物知りな先生みたいな人だったよ」
「いろいろ教えてくれたんだ」
「なんか伊賀崎先輩みたいに首に蛇を巻いた知り合いがいるらしい…!」
「えー!?その人、大丈夫なの!?」
「すごく強い人らしいよ!」
「胡蝶さんがそう言うなら、きっと本当に強いんだろうなあ」
「そんな人と友達なら…ナメさんのことも、怒ったりしないかなあ…」
「そ、それはわかんないけど…」
こそこそと小声で話していたはずなのだが、会話に夢中になっているのかどんどん声量が大きくなっている。というか普通に雑談している。
しのぶは思わず脱力した。これは確実に一年生だろう。何人で来たのかはわからないが、随分騒がしい。
「とにかく、声をかけてみよう」
意を決したような声が聞こえたのと、既に玄関口まで来ていたしのぶがガラリと戸を開けたのはほとんど同時だった。
「あ」
目が合う。ちまちまとした子供たちがぽかんと口を開けてしのぶを見上げていた。見覚えのある顔も何人かいて、やはり一年生たちだったらしい。今日は忍たまたちも休日なのか、いつもの特徴的な井桁模様の水色の忍び服ではなく、各々普段着であろう着物を着ている。
出鼻を挫いてしまったかな、と思いつつ、しのぶが声をかけようとした瞬間―――先頭にいた子供が大きく声を上げた。
「総員退避!退避ー!」
「散ッ!!」
「わっ、わああ!出たあ!!」
「エッ、ちょ、待って!?」
「あら……」
まるで山姥にでも会ったかのような反応である。小さくとも忍者の卵らしく、号令に従ってバタバタと子供たちが方々に散る。
……果たしてその場に残ったのは、猪名寺乱太郎と皆本金吾だけだった。
「あ、あのう……胡蝶さん、すみません…」
「いえ、驚かせてしまったようですね」
「庄ちゃんったら、らしくないね…」
居た堪れなさそうな表情で小さくなっている二人に苦笑する。
数拍おいて落ち着いたのか、ひょこりと隠れていた近くの茂みからまず顔を出したのは、生物委員会の活動中に知り合った虎若と三治郎だ。
「胡蝶さん、ごめんなさい、つい…」
「別に怖かったわけじゃないんです〜!」
続いて号令をかけた子――黒木庄左ヱ門が、気不味そうな顔でおずおずと木の影から出てくる。
「申し訳ありません…驚いてしまって…」
「ふふ、いいですよ」
しのぶが気にしていないと微笑めば、庄左ヱ門も安心したようにホッと息を吐いていた。
三人が姿を現したこともあり、隠れていた他の面々もわらわらと合流してくる。総勢十人。もちもちと団子のように身を寄せ合っている。
関わったことのある生徒以外の子は、どこか不安げにしのぶを見上げていた。
「天女さま。僕は一年は組学級委員長、黒木庄左ヱ門です。皆、一年は組の忍たまです。えっと…じゃあ、自己紹介!はじめましての人!」
「はーい!福富しんべヱです!」
「はにゃ…っ山村喜三太です!」
「会計委員会、加藤団蔵です!」
「二郭伊助です!」
「笹山兵太夫でーす!」
「もう一人いるんですが……今日は来れなくて。以上、一年は組です。よろしくお願いします!」
「はい、医務室勤務の胡蝶しのぶです。よろしくお願いしますね」
「「よろしくお願いしまーす!」」
最後は既知の子供たちも含めて挨拶してくれた。とても元気である。
「ところで……何か用事がありましたか?」
「あっ!」
さっそく本題に入ったしのぶの言葉に、人懐っこく笑っていた子供たちが、ハッと思い出すように警戒を滲ませる。
「……僕たち、天女さまと話をしたいと思って来ました」
「話?」
組の代表なのだろう、庄左ヱ門が一歩前に出る。睨むとまではいかないが、意志の強い眼差しでしのぶを見上げていた。
「これまでの天女さまと違って、正式に先生になると聞きました。…僕たちは天女さまによい思い出がないです。先輩たちや金吾たちに話は聞きましたが、やっぱり天女さまってだけで、信じられなくて…」
その天女本人に言うのはやはり憚られるのか、少し躊躇いながらも庄左ヱ門は続ける。
「立花仙蔵先輩は突撃するなと仰っていましたが、やっぱり自分たちの目で見極めたいと皆で話し合いました」
「……」
先輩の忠告を聞かなかったのね…と苦笑しつつ、彼らの見極めたいという気持ちに然もありなん、と思う。
例の病症録を読む限り、最も天女の被害を受けたのはきり丸少年だ。では次点は、となると一年は組の面々が挙がるだろう。
上級生たちも絡まれているものの、年齢や実力的にも天女の理不尽に抗えず、正面から受け止めるしかなかった彼らの精神的負担は大きい。
「なので話をしたいです。天女さまのことを教えてください!」
「「お願いしまーす!」」
なんとも率直である。ぺこりと頭を下げる彼らが純真過ぎて眩しいほどだ。
「構いませんよ。…でも、面白い話なんて出来ませんからね?」
しのぶは頷き、戸口を広く開ける。
話をするなら玄関先よりも屋内の方が良いだろう。しかし天女の長屋に踏み込むなど流石に嫌がるだろうか…と少しばかり心配したが、子供たちは瞳をきらきらと輝かせながら長屋の中へと入って行く。
……。警戒心とは……?
「あ、お茶なども無いんですが…」
しのぶの過ごす長屋には嗜好品の類はない。甘味を食べたいと思うことはあれど、我慢できる範疇の欲求なので誰かに伝えたこともない。飲み物も茶葉までは必要ないだろうと水を飲んでいる。そもそも世話になっている身で何かを強請ることは憚られたのだ。
部屋はがらんとしている。机の上に積まれているのは図書室で借りた数冊の本。本のそばにあるいくつかの布は、過去の天女が残した衣服の縫製を解いたものだ。しのぶが暇な時、本を参考にしながら手慰みに針仕事をしているためだった。
改めて見ると殺風景な部屋である。二月は住んでいるのだが、生活感がまるで無い。部屋の片隅に飾られた小平太パペットと滝夜叉丸ブロマイドと1/12スケールのサチコが異彩を放っていた。
そんな部屋なので、折角来てくれた客人に出せるのは水くらいだった。突然やって来たのは彼らの方だが、水だけと言うのも味気ないものだ。ちなみに初めてしのぶが長屋の中まで招いた客人なので、思うところもある。
今からでも食堂で何か貰ってくるべきか、と悩んだ一瞬。目が合った庄左ヱ門がこくりと頷く。
「大丈夫です。お茶もお茶請けも持ってきました!」
「準備万端すぎません?」
わさっと取り出される茶菓子の数々に思わず突っ込んでしまう。何人か風呂敷を背負っている子がいると思ったら……。
これはお話会を強行するつもりだったな。まあ、準備しなくて良いなら手間も省ける。
しのぶは開き直って入室を促していく。座布団もないが我慢してもらおう。子供と言えど十人も入れば六畳一間はぎゅうぎゅうだった。障子を開けて縁側も開放しておく。
興味深そうに部屋を眺める子供たちだが、あいにく何も無いものだからすぐに興味も失せていく。片隅に飾られたお見舞いの品々にはぎょっとしていたけれど。
各々好きな場所に座ったところで、しのぶへと視線が集まる。話をしたいと言われたが、何から話せば良いのやら。
「……それから、まだ先生になると決まったわけではないですからね」
もう外堀から埋められているような気がしないでも無いが、とりあえず、しのぶは悪足掻きでそう言っておいた。
***
さて――ここで誤算だったのは、しのぶが少年心を今ひとつ理解していなかったことである。おかげできらきらした瞳に囲まれて困ったことになっている。
一年は組の子供たちは、さっそくしのぶを質問攻めにした。一斉に話し出すものだから聞き取れなかった。頭が痛い。一人ずつ順番に言うようにお願いすれば、行儀良く手を上げて質問を繰り出す。
好きな食べ物は?嫌いな食べ物は?好きな花は?ここに来る前は何をしていたの?背が伸びる薬はありますか?何歳ですか?声変わりっていつ頃に来ますか?怪我はもう痛くない?ナメクジ好きですか?不運ってどうすれば祓えますか?
些細なことから、それ今聞く?みたいなことまで多種多様に質問された。苦笑しながらひとつひとつ答えていく。そうしているうちに、ついに核心を突く問いが出る。
―――食堂で話していた、「鬼」とはなんですか?
「…私のいた世界には、…人を襲う鬼がいたのです」
とりあえず人喰い鬼はマイルドに表現してみた。ヒエ〜と気の抜けるような声が上がる。怖がるような反応だが、実際にはそこまで恐れを抱いてはいないことがわかる。つまり対岸の火事だ。物の怪が信じられているような時代だが、実際に見たり被害に遭わなければ御伽話でしかない。
まあヨシ、としのぶは一人頷く。まだまだ純真な子供たちには、鬼など御伽話で良いのだ。
「人を襲う鬼を退治する組織がありまして、鬼殺隊と言います。私はそこに所属していて――――」
そこから鬼と鬼殺隊の話をして、今である。
胡蝶しのぶがどうして鬼殺隊に入ったのか、といった過去も覚悟も、語る必要はない。単純明快に、難しいところは省いて、わかりやすく勧善懲悪で。……この辺りで気付けばまだマシだったのかもしれない。好奇心と興奮に輝く子供たちの表情に気付くべきだった。
はてさて、かなりマイルドに表現した鬼殺隊のあれこれは、しのぶの語り口調も相まって―――なんと全年齢対象ハラハラドキドキの冒険活劇になってしまったのである。胡蝶しのぶは怪談話が趣味だったので、それっぽい雰囲気を作る話術は得意だったことも拍車を掛けた。
ざっくり言えば、世の中を混乱に陥れる悪の組織があり、対抗する正義の組織キサツタイが、下っ端の鬼たちを蹴散らしながら仲間と一致団結し、悪の親玉キブツジムザンへと戦い挑む、よくある英雄譚のような………まあ、概ね間違ってはいない。グロテスクな描写や人死関連をそれとなく誤魔化してみると、大体そんな感じになってしまう。ちょっと複雑で組織化された桃太郎のようなもの。
まだまだ夢見るお年頃。娯楽も少ないこの時代、真新しい冒険譚はそれはそれは少年たちの心を擽ったわけだ。
「そ、それで…」
「続きは…!?」
「うーん……続きはwebで…」
「「webって何!?」」
予想外の食い付きにしのぶの方が困惑している。持参していた茶菓子は途中から見向きもされていない。子供たちはすっかり夢中になっていた。彼らが押しかけて来た時、太陽はまだ中天を過ぎたあたりだったが、今では夕暮れ色に変わりつつある。
適当な誤魔化しに不満げな子供たちを横目に、しのぶはちらりと天井へと視線を向けた。姿は見えないが―――途中参加者がそこにいることに彼女は気付いている。なんとかしてくれないかなあ、と他力本願に思っていれば、彼女の願いに気付いたのか、天井裏から気配が消えた。
「そろそろ夜も来ますから、今日はここまでにしましょう」
「えー!?」
「…いや、でも確かに、長居しましたね」
「わっ、ほんとだ」
日が落ちつつある外を見て庄左ヱ門が呟く。は組の中でも特に冷静な彼の言葉に、同じく外を見た子供たちも時間の経過に驚いていた。
「…こらー!!お前たち!!」
「あっ、土井先生!」
「天女さまに迷惑をかけるんじゃない!」
「ごめんなさーい!」
まるで図ったようにそこに現れたのは一年は組の教科担当、土井だった。
玄関側ではなく、解放されていた縁側から声を張り上げている。丁度皆が外を見ていたタイミングだったので、は組の面々はぎくりと肩を揺らしていた。突撃するなという先輩の忠告に従わず、さらには長居してしまったこともあるからだろう。
それに――これまでにあった数々の出来事のせいで、土井が天女を毛嫌いしていることも、彼らは知っていた。は組を守るために奔走していたことも。
可能なら土井は天女に近付きたくないはずだ、と彼らは思っている。なのに自分たちの行動のせいで土井に天女の長屋まで来させてしまった。自分たちが怒られるよりも、土井に無理をさせる方がずっと辛い。
わたわたと皆が帰る準備をしていく中、乱太郎はそろりとしのぶへと視線を向ける。余った茶菓子のいくつかを、庄左ヱ門がお詫びも兼ねて彼女に手渡しているところだった。困ったように微笑みながらも、厚意だからと受け取ってくれていた。
保健委員での活動中も、今も、しのぶは穏やかで優しい。豆腐地獄を強制終了させた強かな面もあったけれど、決して理不尽なものではない。突然押しかけた乱太郎たちを迎え入れてくれて、要望通りにたくさん話をしてくれた。喜三太のナメクジにだって、驚いていたし触れようとはしなかったけれど、喜三太が大切にしていることをわかっているのか、否定だけはしなかった。
話では、キサツタイで鬼と戦っていたらしい。正義の味方だ。彼女は戦いの中、怪我をした人を治療する立場にあって、だから学園長から医務室勤務を言い渡されたのだという。薬の知識は新野や伊作もお墨付き。
「胡蝶お姉さん。今日来れなかったもう一人、きり丸っていうんです。今度会ってくださいね」
片付けを終えて玄関先に集まる。揃ってお礼を言った後、乱太郎はしのぶへそう言った。
少し離れた場所に立つ土井が、呆気に取られたような表情をしている。は組の同輩たちも乱太郎の急な言葉に驚いていたけれど、意図を察してくれたようだ。
―――この人なら、信用できるかもしれない。傷付いた友人を、これ以上傷付けることはないはずだ。それに有能な薬師だったのだから、もしかしたら助けてくれるかもしれない。彼らの心に淡い希望が灯る。
玄関先で手を振って見送るしのぶに、乱太郎は今度こそしっかり手を振り返した。
「……天女さま、良い人だったね」
「うん」
「きり丸は、大丈夫かな」
「大丈夫だよ、きっと」
長屋で待つ友人は、まだぼんやりしているだろうか。戻った自分たちを、彼は貼り付けたような笑顔で迎えてくれるのだろう。自分一人が長屋に残されたことに疎外感も、違和感すら覚えることなく。
大丈夫だよ。言い聞かせるように乱太郎が繰り返す。一人を欠いた一年は組がぞろぞろと長屋へと歩いていく。足取りは軽く、皆の表情も明るい。
これまでの天女のような押し付けがましい優しさとは違い、しのぶはただ誠実に、は組の面々と向き合ってくれた。楽しかった―――皆と、彼女と過ごした時間が、ちゃんと楽しかったのだ。乱太郎はしんべヱと笑い合う。
大切な友人が本当の笑顔を取り戻す日が、近くなった気がする。なんだか全てが良い方向へ向かうような、そんな予感がした。
***
「ありがとうございました」
「…いえ」
一年は組の子供たちを見送り、しのぶは長屋の戸を閉じた。賑やかな子供たちが去った後、部屋はしんと静まり返っている。ほんの少し、祭りの後のような侘しさを感じる。
解放したままの小さな縁側の向こうから、土井がじっと彼女を観察していた。監視以外で長屋に踏み込むつもりはないらしい。明確に引かれた線は、そのまま彼の警戒と心の距離だ。しのぶが怪我をした際に介抱されて以降、こうして言葉を交わすのも久しぶりである。
天井裏の途中参加者は土井だった。休日とはいえ、天女の長屋へ揃って向かった子供たちを心配したのだろう。しのぶの視線に気付いて、子供たちが帰るように促してくれたのだ。
「……先程の話」
夕暮れの中に佇む男がぽつりと問いかける。薄暗くなり始めた黄昏時、彼の表情はよく見えない。
「あの子たちに話していた内容、気遣ってくれたんでしょう。随分優しい内容になっていましたね。でもあなたの話ではなかった。――炭治郎って、誰ですか?」
土井の質問にしのぶは僅かに目を伏せた。これも情報収集の一環なのかもしれない。
結果的に冒険活劇のようになった鬼退治の話。最初はしのぶのことを話していたけれど、鬼殺隊のことを話しているうちに、つい『主人公』に触れてしまった。子供たちは予想以上に彼の存在に食い付いてしまい、話の主軸に持ってくるしかなかった。
――竈門炭治郎。正真正銘『鬼滅の刃』の主人公。胡蝶しのぶとも関わり深く、しのぶの平和ボケ記憶の方でも印象強い。
「……炭治郎くんは、鬼殺隊にとって特殊な立ち位置にいたんです」
ああ、確かに主人公足りえる。鬼になった妹は人を喰わず。彼が鬼殺隊に入隊してから次々と撃破されていく上弦の鬼たち。珠世との関係。鬼舞辻無惨との奇妙な因果。鬼殺隊の勝利には彼の存在が大きい。
けれどしのぶの記憶の中の彼は、紙面のものだけではない。迷い、戦い、時に打ちのめされながらも懸命に生きていた、一人の少年だった。
「あの子たちに伝える時はかなりぼかしていましたが。…炭治郎くんは家族を殺され、唯一生き残った妹が鬼にされてしまったんです。彼は妹の禰󠄀豆子さんを元に戻すために、鬼殺隊に入った子です」
「!」
「当然反発も大きかったですが……彼自身は、とても心の綺麗な子でしたよ。鬼は虚しくて悲しい生き物だと言っていた。罪を憎んで人を憎まず、と言うでしょう。その言葉を体現しているようでした」
私には出来なかったことです、としのぶは続ける。
「……私の姉もそうでした。鬼に同情していた。自分が死ぬ間際まで鬼を哀れんでいた。…けれど、私はそんなふうに思えなかった。人を殺しておいて可哀想?そんな馬鹿な話はないです。鬼は自分の保身のために嘘ばかり言う。理性も無くし、剥き出しの本能のまま人を殺す。……ずっと、ずーっと許せなかった。体の一番深い所にどうしようもない嫌悪感があって…」
そこまで話して思い出すのは、決戦を控えた時期に共同研究をした鬼の女――珠世だった。しのぶが胡蝶しのぶだった頃、鬼への憎悪が隠しきれずに、何度も助手の青年と睨み合いになったものだ。研究中も周りがそんなものだから、彼女も随分と居心地悪そうにしていた。
平和ボケ記憶の漫画の通りなら、珠世が作った薬はしっかり効果を発揮して、鬼舞辻無惨の弱体化に成功している。
凄い方だと素直に思った。きっと多くの人間を喰い殺してきた鬼のひとり。しかし彼女は鬼であることに苦しみ、その所業を悔いて、共に鬼舞辻無惨を倒そうとしてくれていた。
『鬼は人間だった』。ああ――この『人』は人間だったのだ。自分と同じ、人間だったのだ。
きっと姉や炭治郎がずっと前から気付いていて、しかし胡蝶しのぶは見て見ぬふりをしていたこと。その時になってようやく実感できたような心地だった。
「……だから、炭治郎くんにしたんです。私のような者より、彼の方が受け入れられやすいでしょう。心優しい子だったから」
本当は、仲間の詳細など言うつもりはなかった。鬼殺隊には鬼憎しで所属している者が大半だ。そしてその憎悪を抱くだけの過去がある。
彼らが苦しんだ過去を、『物語』だからといって赤裸々に語るのは、なんというかこう、抵抗があった。自分のことならともかく。なにせしのぶもかつては物語の中の登場人物として生きていたので、ちゃんとした等身大の人間である仲間たちを知っているのだ。
竈門炭治郎という少年を知っているからこそ、漫画の中でしか知り得なかった彼の過去も、心情も、今では実感すら伴って、わかってしまう。慈悲深い子だった。漫画の中では、炭治郎の言動で幾らかの鬼が救われていたほどだ。彼にそんなつもりはなくても、日の光のような善性が闇を照らしてくれていたのだ。
彼が抱いた絶望も無力感も―――胡蝶しのぶが死んだ時、涙を流してくれたことすらも、今のしのぶは知っている。最後まで戦い続けてくれたことも。黄泉路へ落ちてきた彼の背中を押したことも覚えている。
言うつもりはなかった。しかし、もしも語り継がれるのならば、自分よりも彼が相応しい。子供たちに語った理由は、そんな気持ちが出てきたからだった。
土井は黙ってしのぶの話を聞いていた。
しのぶが話すのをやめてしまえば、微かな虫の声と風の騒めきだけが残る。
「我々は、忍びです」
ぽつり、と落とされた声は硬い。夕日が沈んでいく。空は薄らと夜の色を纏い始めていた。
彼の表情は変わらず見えない。
「戦忍だった者もいます。汚れ仕事を請け負うこともある。……私もそうでした。いつか、忍たまたちも立派な忍びになる。今は無邪気なあの子たちだって。いつか……その手を汚すこともあるでしょう。諜報、暗殺、奇襲。口に出せないようなこともするでしょう」
脈絡のない話に内心首を傾げていたしのぶは、そこまで聞いて察した。
指先が冷たくなる。思わず握り締めれば、爪先が手のひらに食い込んだ。
「あなたは…――それを受け入れられますか。人を殺した鬼を許せないなら、かつて人を殺していた我々も許せませんか。…いつか人を殺すかもしれない子供たちを許せませんか」
土井はしのぶに是非を問うているのだ。
つい先程『人を殺しておいて可哀想?』と言い放った彼女に向けて。人を殺す、その一点を。鬼と人とで、許せるか否か。
難しい問いだった。個人の心情の問題だ。一般論や倫理や道徳を挟まず、『しのぶ』の答えを聞いている。
「……わかりません。私は、人を殺した人…とは縁がなかったので」
「………」
「もしかしたら…許せない、のかもしれない」
「………」
目の前に立つ土井も、きっと人を殺した過去があるのだろう。
時代柄、各地では戦もあるらしい。巻き込まれた民草の犠牲も多かろう。それこそきり丸少年のように、故郷や家族を失った者も。生きるために忍びの道を征くしかない者もいるのかもしれない。
無垢な子供たちの笑顔が瞼の裏に浮かぶ。怪我人を放っておけない伊作。何故かスーパースターを目指している滝夜叉丸。ここで生きてと笑って言ってくれた守一郎。翳りのない笑顔が幾つもあった。
ここは忍術学園。忍者になるための学び舎。いつか、あの子供達も……その手で。
沈黙が落ちる。いくら考えても、許せるのかどうか、きっぱりとした答えは出てこなかった。
「……でも、いつかその時が来るのだとしても、せめて健やかに生きていてほしいと願うのは、…私の我儘なんでしょうね」
そっと呟いて、握り締めたままだった手のひらを解いた。知らず俯いていた顔を上げると、土井は少しだけ、縁側に近付いてきていた。距離が近付いた分、見えなかった表情が見えるようになる。
硬い声音から一転して、土井は困ったように微笑んでいた。
「真剣に悩んでくれたのは、あなたが初めてかもしれません」
「え…?」
「これまでの天女さまは、なんというか…言葉に重みがなかった。人を殺すのはいけないことだって一点張りだったり。あなたなら許すと軽々しく言ってみたり。…我々も、殺さずに済むならそれが良かった。戦のない世の中なら。飢え苦しむことがない時代なら。そうであったのなら、どれほど……」
「……」
「……人の生き死にについて、実感を持って知っているあなただからこそ、ちゃんと考えてくれたのでしょう。
学園で正式に働くとなった時、そこが心配だったのです。あなたはいつも、忍たまたちを一人の子供として見ていてくれたから」
「…まだ正式に働くとは決まっていませんよ」
「あなたもなかなか往生際が悪いですね…」
土井はフッと力が抜けたように小さく笑った。穏やかな表情は、これまでしのぶが見てきた能面のような無表情よりも余程自然なもので、彼の人の良さが滲み出るようだった。
「―――胡蝶さん」
一頻り笑った後、土井は改まったようにしのぶの名を呼ぶ。もうすっかり日は落ちて、夜の風が吹いていた。
「書類を……預かっていると思います六年ろ組の中在家長次から、きり丸に関する書類を」
「!」
「後から言われて驚きました。彼の独断だったようで」
「あの、借りてはいけないものでしたか?」
「いいえ。……正直なところ、手詰まりだったんです。いろいろと調べたり、学園外の医者を訪ねたこともありました。しかし、どうにもしてやれなかった。
あなたが優れた薬師と聞いた時……それでも私は信じられずに二の足を踏んでいたのですが。…まったく…長次、見る目があるなあ…」
頬を掻きながら土井は苦笑している。
そうして縁側を指して、座っても?としのぶに尋ねた。思えば二人とも立ち尽くしたまま話をしていた。しのぶは座敷で、土井は小さな庭で。心の距離をそのまま表したように。
しのぶが頷くと、土井はそろりと近寄って、縁側の隅に腰掛けた。視線で促され、しのぶもゆっくり腰掛ける。二人の間には一人分の空白がある。
長屋の中までは入ってこない。草鞋も脱がない。しかし隣り合って話す。それが未だ警戒を解ききれない土井の、精一杯の譲歩でもあった。
「…胡蝶さん。私からもお願いしたい。きり丸のことを診てやってくれませんか。書類にも書いていたと思いますが、私はあの子を預かっていて、保護者のようなものなんです。なのに……あの子の気持ちに気付いてやれなかった。たくましい子だったから、どこかで大丈夫だと思い込んでしまっていたんです…」
土井は少し俯いて、己の足先を見つめていた。語られる懺悔は錆びついたように痛々しい。
きり丸少年の心の傷は、彼自身だけではなく、目の前の人の心も大きく傷付けたのだろう。そしてそれはきっと、病症録の作成に携わった学園の者、全ての傷でもある。
「……心の病に特効薬はありません。私に出来ることは本当に些細なことでしょう。…それでもいいのなら」
「構いません。―――よろしくお願いします」
静かに下げられた頭が、そのまま彼の誠意だ。長次と乱太郎も、きっと同じ気持ちだったのだろう。
しのぶは頷く。出来る限りをしたいと、まだ見ぬ少年を思う。
心は一度壊れてしまったのかもしれない。けれど、無くなったわけではないのだ。――全部どうでもいいと言いながら、それでもきり丸が過去の行動をなぞっていたのは、他ならぬ彼の心が、そうするべきだと決めたはずなのだから。かつてカナヲがたった一人、自分の意思で鬼殺隊入隊の最終選別に向かったように。
カナヲは少しずつ、壊れた心のかけらを繋ぎ合わせてみせた。叶うのならばきり丸の心もまた、花開く時が来ますように。
雲一つない空にはすっかり星が瞬いている。暗い縁側で二人は、しばらく祈るように宙を見上げていた。
***
◼️面影
――はたして、しのぶがくだんのきり丸少年に出会ったのは、土井たちにセッティングされた場所でもなく、翌日の図書室だった。双方共に予想外である。
「……」
「……」
「……」
図書室は公共の場なので、当然しのぶ以外も利用する。忍術とは関係のない書物だからと彼女が利用を許されたその場所も、もちろん必要であれば忍たまも教員も利用している。まして、きり丸は図書委員会のメンバーだ。必然でもあっただろう。
しのぶが訪れた書架の一角。そこに彼はいた。
手に帳面のようなものを持って何かを書き付けている。並べられた本と手元の用紙を何度か見比べているところをみると、在庫確認のようなことをしているのかもしれない。
ばったり出会すことになった二人は、無言のまま見つめ合っていた。
「……こんにちは〜」
「……はい、こんにちは」
さて、実はこの時、しのぶは彼がきり丸とはわからなかった。
病症録を読んでいたが、そこに写真の類はなかったのだ。纏う忍び服が水色の井桁模様だから一年生とは判るものの、一言で一年生と言っても、い組やろ組もいる。まだ自己紹介すらしたことがない生徒も多い。
挨拶に挨拶を返す。少年は薄く笑っていた。随分わかりやすい愛想笑いだ。
「本の貸し出しですか?」
「ええ。借りていたものは読み終わったので、他のものを借りようかと」
しのぶは少年から目を離して書架を眺める。ずらりと並ぶ本の種類は様々だ。図書室には忍術に関連するものや、武具、火薬、兵法などの書籍の方が多い。しかしそれ以外の書籍も十分に揃えられているのだ。しのぶが立ち入りを許されている一角だけでも沢山ある。
持て余す時間の手慰みに、としのぶが数冊借りていた手芸の本は読み終わってしまった。おかげで不格好ながらも衣服を縫えるようになった。保健委員の面々と薬草取りに行く時などに動きやすいよう、天女たちが残した衣服を絞り袴に仕立て直したのは、他ならぬしのぶである。
「あなたは図書委員会の人ですか?」
「そうです」
「…じゃあ、おすすめの本とかあります?」
ぱっと見て興味を惹かれる本がなかったしのぶは、隣の少年にそう問いかけた。在庫確認のようなことをしていたから、おそらく図書委員で、ならば所蔵書には詳しいかもしれない。そんな安直な考えで聞いただけだった。
「おすすめ…」
しかし彼はぴたりと動きを止める。戸惑ったように呟き、うろうろと視線を彷徨わせた。
「……」
沈黙が落ちる。少年は忙しなく書架を端から端まで眺めている。何かを言おうとするように時々口を開いているのに、結局声にならずに口を閉じる。はくはくと小さく動く唇が戦慄いていた。少年が持っている書類に皺が寄る。彼はそれを握り締めていた。力を入れすぎて僅かに震えているようだ。
これはおかしいぞ、としのぶが違和を感じたのはその時だ。
沈黙は途切れない。彼は何も言わない。
おすすめの本が無いなら無いで構わないのに、ずっと書架を見つめている。探すように、迷うように―――でも結局わからなくなって、途方に暮れたように。
「……そういえば、名前を聞いていませんでしたね。私は医務室勤務の胡蝶しのぶです」
奇妙な沈黙を破ったのはしのぶの方からだった。半ば確信しつつも彼女は聞く。
「あなたのお名前は?」
「…――摂津のきり丸です」
書架から外れた視線がしのぶへ向く。無機質な眼差しだった。路傍の石でも見ているようだ。表情を取り繕えても、案外目というものには感情が表れやすい。
異様な沈黙。コミュニケーション能力の低下。考えが纏まらず、どうでも良くなって、何かを決められない―――だから何も答えられない。無理に答えようとしても言葉が出ないものだから、結果的に先程のように口を開いては閉じるだけになっていたのだろう。
彼こそがきり丸。心を壊してしまった少年だった。
「…きり丸くん、と呼んでも?」
「え?……はい」
思わぬ邂逅にしのぶも驚いている。しかしこれも契機の一つだ。
彼女はそっときり丸の前に蹲み込んで視線を合わせた。愛想笑いすらなくなっていたきり丸は、どこか茫洋とした表情で、しのぶの言葉に素直に頷く。
「おすすめの本は無かったですか?」
「え、とォ……、…わからなくって……」
「何がわからなくなりました?」
「……なにが?……あ、おすすめってのが、わかんなくて」
「おすすめが?……なるほど。範囲が広すぎたから混乱してしまったんですね。うーん……じゃあ、君の好きな本はありますか?」
「おれの好きな本?」
「はい。興味のある本でも良いですよ」
数秒考え込むように黙ったきり丸は、徐に棚から一冊の本を取り出した。
「『アルバイトのすゝめ』……?」
「おれ、銭が好きだから」
「この時代にアルバイトなんて言葉があるんですね…」
何故図書室にそんな本があるのかはさておき。しのぶが言葉を噛み砕いて伝えれば、きり丸は「おすすめの本」を選ぶことができた。
その事実にほっと息を吐く。そうして病症録に記載されていた症状の数々を反芻する。
全部どうでも良い。故に、何かを決められない。――けれど、きり丸にはちゃんと嗜好が残っているようだ。銭が好き。だから促した結果、稼ぎ方が載っているアルバイトの本をおすすめとしてしのぶへ渡した。
本を受け取りながら、ごく自然に、つぶさに少年を観察していく。
「ありがとうございます。折角ですからこの本を借りますね」
「はい。返却は早いめにお願いしまーす」
決まり文句なのだろう。慣れたように告げる言葉は滑らかだ。先程まで迷子のように辿々しかった声に活気が戻る。にこりと浮かべた笑みはやはり貼り付けたような愛想笑いだったが。
しのぶはかつての継子を思い出していた。保護した当初のカナヲよりは、彼はまだ話せるようだ。心の病に上下も何もないが、印象としては、自ら鬼殺隊に入った頃のカナヲに近いかもしれない。彼女は蝶屋敷で周りの人々と接するうちにやがて自分を確立していった。
きり丸にとっては、きっと学園の皆だ。友人や先輩、教師の皆が彼を支えていたから、もっと酷い状態にはならなかったのかもしれない。
「きり丸くん。またお話しても良いですか?」
「えっ……」
「やっぱり自分では、決められない?」
「……知ってるんスね、天女さま」
きり丸から愛想笑いが抜け落ちる。訝しげに眉根が寄っていた。自然な表情の変化は往時のカナヲにはなかったもので、随分と素直な仕草だ。
彼が自身の病症録の存在を知っているかどうか定かでは無いが、教師たちや先輩が気を揉んでいることは察しているようだった。
「少し」
「ふうん。…うん、どうでもいい。どうでもいいから決められない」
「私と話すのは嫌ではないですか?」
「別に……天女さまのことも、どうでもいいんスよ。なーんとも思ってないから大丈夫」
伽藍堂で平坦な声だった。
彼にとって「天女」はあまり良い存在ではないだろうに、現在の天女であるしのぶに相対しても何とも思っていないと言う。それはしのぶ個人を区別して見ているわけではなく、単に好悪の感情が希薄化してしまっている為だろう。
「じゃあ、またお話ししましょう。明日も図書室にいるんですか?」
「いますよ。でも話すことなんてないでしょ。おれ、こんなだし」
「だから話をしたいんです」
「……変なの」
何故、と追求はされない。考えることが億劫になってしまったようだった。
ただ明確な拒否はされなかったので、しのぶは明日も図書室にお邪魔する予定を立てる。
二人の会話が一区切りついたところで、見計らったように気配が近付いてきた。
「きり丸、胡蝶先生」
「中在家先輩」
「こんにちは、中在家くん。それから、まだ先生ではないです」
「もそ……」
もはや見慣れた深緑の忍び服。図書委員会委員長、中在家長次である。
タイミングの良さを考えると、二人の会話を聞いていたのかもしれない。もそもそと囁くように喋るのは相変わらずだった。ちなみにしのぶの細やかな訂正はスルーされた。
「…図書室では、静かにお願いします」
「あ。そうですね…すみません」
大きな声で会話していたわけではないが、静かな図書室では普通の声量でも耳障りだったかもしれない。配慮ができていなかった。謝罪するしのぶに長次は緩く首を振った。
「もそ…、……どうせ話すなら、医務室でもいいのでは」
「それは…」
「きり丸、嫌か?」
「え?…別に、どっちでもいいっス」
「じゃあ明日、図書委員会の仕事を早めに切り上げて、医務室に行くように」
いきなり医務室でしのぶと二人で話すのはきり丸にとってハードルが高いのでは、と考えていたが、長次はさくさくと話をまとめてしまった。明日の指示を出すついでに、しのぶと話していたことで中断されていた委員会の仕事に戻るようにときり丸に伝えている。彼はあっさり了承して、そそくさと仕事に戻っていった。
そうすれば書架の一角に残ったのは、しのぶと長次だけだ。
「……胡蝶先生、どうですか」
ぼそりと長次が問いかける。主語がなくてもきり丸のことだとわかった。
「記録の通りでしたね。ここで会うとは思っていなかったので驚きました。まだ少し話をしただけなので、今は何とも言えません。もう少し話してみます。医務室へ行くよう言ってくれたので助かりました」
「もそ…よろしくお願いします…」
「出来る限り」
ぺこりと頭を下げてから、長次も去っていく。
話し声もなくなった図書室の一角で、しのぶは手元の書籍に視線を落とした。
きり丸がおすすめしてくれた本、『アルバイトのすゝめ』。ぱらりと捲れば、どこぞの城の求人情報から、内職などのコツ、職場の信頼関係の築き方、信用できるアルバイトの斡旋業者まで記載されている。室町時代版の求人雑誌だった。
何故図書室に所蔵されているのか本当に謎である。
「……」
所定の手続きを踏み、そのまま本を借りる。
戻った長屋でもぱらぱらと呼んでいたが、目が滑るように内容が頭に入ってこない。別事に気を取られて気もそぞろになっているからだ。
しのぶが過去を明かした会合の日から、囲い込まれるように、忍術学園への正規雇用を仄めかされている。
「まだ正式に雇われていない」とのらりくらりと躱してきたけれど―――そもそもしのぶが保留にしてきたのも、いつか消える天女なのだから…そもそも死んでいるし…といった曖昧すぎる自分自身への懸念からだった。
忍術学園にやって来て、もう二月以上経つ。しかし未だ帰る兆しもない。そもそも、すでに死んでいるしのぶが帰ったところで、どうなるのかもわからないけれど。
もし――このまま帰れないのなら。
無意識に目を逸らしていた可能性のひとつが、とうとう存在感を増して目の前にやって来ている。
もしも帰れないのなら、しのぶはこのまま異世界の室町時代で生きていかなければならない。何故しのぶが生きているのかは謎だが、実際に生きている以上、何事にも金がかかる。今までは保護という名目で衣食住の保障はされており、金を得る機会もなければ金を使う機会もなかった。軟禁状態なので仕方ない。
しかし今後生きていくなら、働いて日銭を稼がなければならない。『アルバイトのすゝめ』という本が、急に現実を突きつけて来たような心地だった。
「どうするべきなの……」
忍術学園で正式に働くことを受け入れるべきなのか。―――まるでこの地に根付くように。それが良いことなのか悪いことなのかも、しのぶにはわからない。
学園長は返答を急がないと言ってくれてはいるが、そろそろ答えを出さねばなるまい。
きり丸のこと、自分自身の進退。考えることが多くて、少し頭が痛くなってくる。
長屋の座敷の上、布団も敷かずに行儀悪くごろりと寝転がりながらしのぶは現実逃避に目を閉じる。暗闇が広がり、細く息を吐いた。
手を離した本が重力に従ってぱたりと閉じる、その音が嫌に響いた気がした。
***
―――穏やかな日々が急転したのは、その数日後のことである。
四年生との反射訓練。保健委員会との医務室での仕事。時々やってくるもちもちとした一年は組の面々と他愛無い話をして。
きり丸とも、少しずつ話を重ねていく。その最中のことだ。
天女の長屋は、忍術学園の敷地の中でも端の方にある。誰も何も言わないが、隔離のためだとしのぶも察している。天女への忌避感を実感する配置だった。
忍たま長屋からもくのたま長屋からも離れているそこは、人通りもほとんど無い。一年は組をはじめとした忍たまたちが訪れなければ静かなものだ。
今ではもう監視もないから、本当にしのぶ一人きりだった。たった一人で、隔絶されたその長屋で過ごしていたのだ。
――顧みれば、これほど狙いやすいものもないだろう。しのぶも、忍術学園の者たちも、すっかり油断していた。
彼女が真っ当な人間だったから。「天女」に関わりがあったのは、忍術学園だけではないことを……「天女」へ向けられていた幾多の嫌悪と敵意を、失念していたのだ。
それは夕暮れ時のことだった。
しのぶは長屋の玄関先に土埃が溜まっているのに気付いて、何となしに掃き掃除をしていた。長箒を手にさかさかと手際よく纏めていく。
そう時間をかけずに終えて、箒を片付けようとした時。
――背筋を走り抜ける、ゾッと粟立つような感覚。肌理を剣先でなぞられるような冷たい気配。びりびりと空気が荒む。手放そうとしていた箒の柄を強く握り直した。
しのぶは知っている。その感覚を覚えている。刀を握り、夜を駆け抜けた鬼狩りの記憶が教えてくれる。随分と久しく感じる敵意―――そして、殺気だ。
思い至った次の瞬間には、視界の端にきらりと鈍い光が見えた。ほとんど反射で、握っていた箒の柄を振り抜く。
―――カァン!
鈍い音が空に吸い込まれた。木製の箒の柄が、金属を弾いた音だ。長箒の柄はまだ折れていないが、鋭いもので裂かれたような痕が刻まれる。次いでからりと地面に落ちるのは、学園に来てすっかり見慣れてしまった、忍者の得物のひとつ。…手裏剣だった。
「あーあ。挨拶するつもりもなかったんだけどな。……マ、戦う力があることは聞いてるから想定内、想定内」
夕暮れ時。黄金に染まる空の下。長屋からそう遠くない塀の上に、男が立っている。
「さて。こんにちは、天女さま。…曲者だよ」
黄昏――誰そ彼。薄暗くなっていく世界。この長屋で土井と話した時と同じ、人の顔が識別しにくい時刻。
どこか飄々とした声音が響く。男の表情は読めない。薄暗さだけでなく、彼の顔の半分以上は包帯に覆われていたからだ。唯一見える右目は、夜闇が近付く中でも煌々と輝くよう。
六尺に届く上背と、傍目にもわかる鍛え上げられしなやかな肉体。纏うのは墨染めの忍び装束。よく見れば顔だけでなく、露出している腕や襟元すら包帯が巻かれていた。
「急で悪いけど、死んでくれる?」
そうしたら記憶からも消えるからさ、と男が朗らかに言う。右目は弓なりに笑っていた。今もしのぶの肌を刺すひりつくような殺気が、まるで嘘かのように。
後に知る、彼の名は――雑渡昆奈門。その名を戴く空の下が不思議と似合う、タソガレドキ忍軍の組頭である。
***
◼️胡蝶しのぶ
………だったもの。
今のしのぶの最推しは恐らく竈門炭治郎。ちゃんと生きていた等身大の彼を知っているからこそ、その慈悲深さや心の美しさがとても尊いと思っている。もちろん他の仲間たちも好き。
短期間でいろいろと起こりすぎてちょっと疲れている。
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